
アンにょん、イケ面です。チャがツイは佐賀弁で恥ずかしい事です。
今心寄せてるのは昨年遊びにいった菊地です。そして胴田貫の刀剣。
予想外に瀟洒な刀剣でしたね、菊池神社に展示会が有って知らんかったんでカメラに納めていないけど。
胴田貫と言うからにはドン臭い田舎の刀剣と思っていた。この名前は田んぼに横たえた死体で試し斬りをすれば、胴を貫(ぬ)けて下の田んぼまで切り裂く」という由来から。
これが豪刀と言われる由来は明治19明治天皇の行幸があり、明珍作の鉄の兜を斬ろうとした。
その「天覧兜割り」で榊原鍵吉(直心影流)が日本刀の同田貫で鉢試しをした。本来、兜は日本刀の斬撃に耐える物で斬れるはずないが、榊原は同田貫を用いて明珍作の十二間筋の兜を切り口3寸5分、深さ5分斬り込みを入れた。
明治天皇も思わず「おぅー」と驚嘆した。兜割りは、榊原の剣豪としての名声を高め、同時に同田貫の強度を物語る逸話として知られる。
これが剛刀と言われた所以なのよ。でもあの時見た、胴田貫は細身であった。ただ重ね「刀を上から見た厚み」は
有ったように覚えている。
けど、刀剣の話ではないのよ。この菊池武光の大刀洗の乗馬の銅像を思うと南北朝時代に繋がった。
さてどっちが勝って今の天皇に繋がっているのかワカランごとなったのよ。
怪しい記憶では、北条の鎌倉幕府を倒した2派が、「オレ達が本物」と唱え日本を二分して争った。
で北朝の足利尊氏と後醍醐天皇が戦ったけど、どうもこの菊池一族は南朝方で宮の陣の戦いで勝利した。
すると今の天皇は「何朝?」になったのよ。
で尻尾の方から考えた。戦国時代の信長は京の朝廷に挨拶に行った。南朝は吉野に有った。京は北朝にあった。
ではこの時の朝廷を支えたのが足利将軍で細川幽さいや明智光秀。これで一気通貫に繋がった。
南北朝は北朝の足利尊氏が勝利して足利幕府を開いた。やがて衰退して戦国時代に突入する。
では何処で負けたのよ。勤皇の楠木正成はどうなった?どうも彼は武士に人気が高かったらしい。十津川郷士がその例。
そこで足利尊氏が「天皇は2年交代で双方から出しませんか?今回は北からとします。天皇の印である三種の神器を
こちらに貸してください。」
でもそれから南からの天皇交代は1度も無かったのよ。
今の世界でもありそうやね。騙された方が悪いという奴等が・・・・・
まぁ、どっちでもヨカです。
今日は硬い話でした。次回は小指の話でも書こうかね。今日のパチリは11年前の久高元旦稽古での親子対戦